ガイジにラブソングを

不労所得を目指したいADHDガイジマンが思ったことをつらつらと。

私はただ人間になりたかった

障害やセクシャルマイノリティをカムアウトすると私がこの人生の上で何が辛かったも知らないくせに「今まで辛かったよね、大変だったよね」と憐れんでくる人に今まで何回か出会ったことがある。今までの苦労を認めてあげよう、という気持ちには感謝するがそういう傾向のある人達は大抵私のことをただの人間としてでなく”障害者の”とか”セクシャルマイノリティ”のという尾ひれをつけて見ているな、と感じてしまう。

世の中にはたくさんの障害や精神疾患がある。統合失調症だとかアスペルガー症候群だとか、もう挙げるときりがない。肢体不自由やダウン症など見た目でわかるものからそれこそADHDやうつのようにぱっと見ただけではわからないもの、あまりにも様々すぎる。セクシャルマイノリティだってそう、トランスジェンダーだったりバイセクシュアルだったりアセクシャルだったりその幅は多岐にわたる。確かにこういったことで生活が不自由だったり悩みの種であったりというのはある、けれどそれ以前にまず障害者もセクシャルマイノリティもみんなみんな一人の人間である。一人の人間としての考えがあるし、思いもある。冒頭に書いたような人たちはきっと多分そのことを忘れているんじゃないか、というのが私の考えだ。

ここからは自分語りになってしまうがご了承を。私は小さい頃から自分が人間でないような気持ちでいた。育った環境や学校でのいろいろがあったのもあるけれど、なんだかクラスメイトとは別の生き物のような、なんともいえない感覚。友達付き合いが上手くいかなかったり、提出物を忘れたり、勉強ができなかったりするたびに私は心の奥でこう叫んでいた。

「人間になりたい!」

某妖怪人間みたいなセリフだけれど本当にこう思っていた。今思うと人間になりたいというより人間として扱ってほしかったのかもしれないけれど、どうなんだろう。自分でもまだそこはわからない。

閑話休題。人間になりたいとずっと思っていた幼い頃の願いはADHDの診断を受けることで一度砕かれてしまった。医者からの話はろくすっぽ理解できなかったけれど、どうやら私はみんなとは違うらしい。みんなとは違うことがこの頃はすごく怖かった。私は人と違うからみんなからいじめられるんだ、と曲解して私は学校に行かなくなった。そしてその頃学校だかなんだかのカウンセラーの人の元へ通うようになり、そこで初めて人間として扱ってもらえた。私の話を聞いてカウンセラーの人は一緒に笑ったり悲しんだりしてくれた、それが嬉しくて私はその時「自分もやっと人間になれたんだ!」と大きな勘違いをしてしまった。それから進学して友達ができ、私はそこでも人間としていられた。冗談を言って笑ったり軽口を叩いたり、人間として楽しい時間を過ごしていた。そうしていくうちに私は友達のことを信頼し、自分がADHDであることをカミングアウトした。障害のことを話すのはすごく勇気が必要だったが、この人達なら受け入れてくれると思っていた。返ってきたのは「それってすっごい大変だったんだよね、辛かったよね」の言葉だった。それから友達は私に必要以上の気を遣うようになった。授業が終わるごとに次は何の授業でどこの教室だよだとか、少し辛いことがあるとオーバーな程に同情してきたりとか、そういう気遣いが生まれる代わりに楽しく笑って冗談を言い合った時間は消えてしまった。今まで人間扱いしてもらえていたのが急に宇宙人にでも接待するような態度。つまりその友達の中で私は”ただの友人A”ではなく、”障害を持った友達A"になってしまったわけだった。そう気づいた時私は人間にはなれないのだと悟った。

この友達は私のことを思いやってくれて、その上での行動だったのかもしれない。けれどそれが私をひどく傷つけた。私はそんな気遣いではなくいつもどおりの楽しい会話をなにより望んでいたからだ。けれど障害をカムアウトしてしまった以上同じ人間同士のものであったその関係は歪んでしまいもとに戻ることはなかった。

私は思う。過剰な気遣いや配慮によって当事者を苦しめてしまうようなこともこの世の中にはあると。障害者もLGBTもそれに属する前にひとりの人間であり、こうしてほしいという意思や希望がある。同情したり気を遣うことは簡単かもしれないが、中にはそういうことを望まずただ”対等な立ち位置”を欲している人もいるかもしれない。過剰な配慮や必要以上の持て囃しは私の人間になりたいという願いを殺した。もちろん気遣いを嬉しく感じる人もいるだろうし、ものの捉え方は人それぞれだ。ただ、安直に同情の言葉を投げかける前に当事者本人を、障害者でもセクシャルマイノリティでもない”人間”としてのその人を見てほしい。その人と過ごした時間や、交わした言葉を思い出してほしい。理解するというのは過去の積み重ねもあってこそだと。

気遣いや思いやりは美しいものだ。ただし、望んでいる人に手を差し伸べる場合に限っての話だけれど。

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