ガイジにラブソングを

不労所得を目指したいADHDガイジマンが思ったことをつらつらと。

発達障害のガイジが風俗で働くとこうなる

前回の記事は52日前に書かれたものだそうだ。約2ヶ月半といったところだろうか、些か放置が過ぎるので少しばかり自分語りをさせて頂こう。

私は昨年まであまり人には言えない仕事をしていた。タイトルにある通り、風俗嬢だ。もちろんお店には障害のことをオープンにはしていないし、主治医にも風俗で働いていることは話していなかった。

そもそもなぜ風俗で働き始めたかというと手っ取り早くお金が欲しかったからだ。お金はあっても困らない、あればあるほど良い。簡単に言うと私は重度の守銭奴なのだ。それに風俗のいいところと言えば働きたい時に働きたいだけ働けること。すぐに体調を崩す私にとってはこれ以上にない条件だったのだ。

私が働いていたのは所謂デリバリーヘルス、お客様がホテルに先に入り私がそこに向かうという形のお店だ。デリヘルについては各自で調べてもらうとして、キモなのはこの仕事内容だ。 デリへルというのはお客様との性的な接触は必須の仕事だ。セクシャリティのこともありお客様と触れ合う時間は地獄そのものだった。元々私は男性が嫌いで嫌悪感を強く持っているのもあって仕事はまるで目に見えないリストカットみたいに私の精神をすり減らしていく。最初の頃は家に帰ってシャワーを浴びながら何度も泣いたしストレスで吐いたこともあった。しかし回数を重ねる毎に私の心は痛みに鈍感になってまるで作業のように男性の相手をできるようになった。有難いことに何人か本指名のお客様もついて、そこそこに稼げるようになった頃に目に見えないリストカットの傷がどんどんと広がっていっていた。 異変にやっと気づいたのはお客様とのプレイ中だった。本指名のお客様だったのでそのお客様の好きなプレイをしていたんだと思う。思う、というのはどういうことかと言うといつの間にか私はプレイ中の記憶が薄くなっていることにこの時気づいたからだ。気づいた頃にすべて終わっていて、ベッドに横たわる私はぼんやりとこんなことを考えていた。 「私は今までここで何をしていた?」 私はいつの間にか解離の症状が出ていたのだ。 今まで解離することは時たまあり、それが原因で入院したこともあった。診断名はつかないもの、私は解離性障害になりうる因子を持っていることを度重なるプレイの中で私は忘れてしまっていたのかもしれない。ホテルを出て事務所に戻る間の記憶も曖昧で、ビルの妖しいネオンが夢幻のように映っていたような気がする。その日は結局早退して、ふらふらと覚束無い足取りで家まで帰って行ったような気がする。今もこの記憶はあまり思い出せない。 この解離は徐々に仕事外の日常にも影響が現れた。あるはずのものがない、ないはずのものかある、記憶にない友達とのメッセージのやりとり。もう私の心はボロボロになり傷まみれになっていたのだ。 その後私は診察の際に今まで黙ってこの仕事をしていたこと、解離が出ていて日常生活に支障が出てきていることをすべて話した。どんなふうに話したかはやはり思い出せない。けれど主治医は黙って私のまとまらない話を聞いてくれていた気がする。そして主治医は私にこう告げたのだ。 「それ以上自分の精神を売り物にするのはやめなさい」 この言葉だけは鮮明に覚えている。風俗の仕事を否定する訳では無い、あの世界は努力さえすれば上に行けるし私のような人間もどきではなく健全な人間がやる分にはいい仕事だとすら思う。けれど私はいつの間にかトラウマや自分の嫌悪するものに対して自分の大切なものを売ってしまっていることに主治医の言葉でやっと気づけたのだ。そして鈍感になっていた心は漸く痛みを思い出し、私は家に帰って一人で今までの分もたくさん泣いた。そしてその日のうちに私はお店に退店の連絡をし、夜の世界から離れることにした。 …というのがこの年末にあったため、とてもブログどころではなかった。自分の事情を言い訳にするのはあまり好きではないが今回ばかりは仕方の無いことだ。 もちろん発達障害を抱えている人が風俗で働くとして、私のようにならず適応してそこそこに上手くやれることだってあると思う。けれど少し考えてほしい、貴方はその仕事での収入以上に自分の大切なものを消費していないかと。その消費が僅かなものだったとしてもそれは積み重なり人生を破綻させる原因になるだろう。これはどんな仕事にも言えることだと思うが、私のように見えないリストカットを繰り返して働くのは自分を追い込むだけだ。私は限界を超える前(とうに超えていたのかもしれないが)に気づき辞めることができたが、そうはいかない人もいる。でも仕事というのは自分のためにやるもので、それをするためには自分というものがあってこそだ。私のように見えないリストカットを続けないよう、この話を悪い見本としてほしい。

リスクマネジメントができない

また更新が先延ばしになってしまった。けれど今回は特別な理由がある。実は一週間ほどインフルエンザで寝込んでいたのだ。

話は二週間ほど前の日曜日に遡る。ここ最近メイプルストーリーにハマり7人目のキャラクターをレベル100にしようと何時間もパソコンに張りついていたのだが夜になるにつれて喉がイガイガして声が出づらいことに気づき体温を測るとちょうど微熱程度の発熱があった。しかしここでもう寝ようとは思わずに私は結局夜中一時頃までずっとレベル上げをしていた。

そして月曜日。関節の痛みと激しい発熱で目が覚めると同時にひどい風邪をひいたと勘違いをするようになった。起きた時点での体温はゆうに38度を超え、今思い返してもどう考えても普通の風邪とは言い難い。それなのに私はまだこの症状が普通の風邪だと勘違いして一日を過ごしていた(もちろんネトゲも欠かさずにレベル上げをし目標のレベル100に到達した)。火曜日になってもその症状は続いたままだったが私はまだ自分の体調に関して疑問を抱かない。この日は診察日だったため治まらない熱とひどくなっていく咳にふらふらしながら病院へと向かった。私の通う病院は全国的に見てもかなり有名でその筋の権威とされるような病院で、診察の待ち時間は予約をしていようが常に三時間以上は待つというADHDには地獄のような場所だ。更に体調不良が加わったことで私は待ち時間の間ずっとぐったりとしており正直なところ記憶が今でも曖昧でいる。長い長い待ち時間を経て診察を受けると医者は私の体調の変化を見逃さないで「本当に大丈夫?」と問いかけてきたがここで私は変な意地を張り「ただの風邪なんで」とあたかも自分には何も問題がないという返事をしてしまった。医者が大丈夫かと聞いてきた時点で傍から見ても異常というわけなんだろうに。まだこの症状を風邪だと信じて疑わない私は風邪にいいとされるありとあらゆる民間療法に手を出した。ビタミンCを取る、エナジードリンクを飲む、ねぎをたくさん食べる、紅茶やハーブティーを飲んで体を温める、体にいいスパイスを食事に取り入れる、足湯をする…一日でこれだけの民間療法を試す人間もそうそういないだろう。ここまでやったのだから明日には熱が下るだろうと変な確信を得た私はネトゲをやらずに病院から帰りすぐに眠りについた。明日には治るという確証もない自信を抱いたまま。そして水曜日の朝がやってくる。目が覚めると同時に治るどころか悪化している体調に気づいた。体温を測るととうとう40度まで熱が上がっていて、それを見てようやく私は内科へとかかることを決めたのだ。そして検査を受け五分もかからないうちに医者が結果を私に報告する。検査キットにはくっきりとインフルエンザの反応が出ていた。

…こうして書くとおかしいと気づくポイントはこれでもかというほどにあったはずだ。私はどうしても危機管理能力というか、リスクマネジメントが下手な生き物でいくら体調が悪くても体が言うことを聞くうちは健康だと思いこんでしまう節がある。今回もその悪いケースで高熱が続いているにも関わらず私は医者から言われるまで自分がインフルエンザだと気づくことはなかった。発達障害を抱える人は痛みに鈍かったり自分の体調の変化に気づきにくいとはいうがここまで気づかないのもなかなかに珍しいと思う。

来年以降の話になるが私にとって大きなイベントが待ち構えているので上手くリスクマネジメントができるようにならなければいけないが、この様子だとそれができるようになるにはあと五年以上はかかりそうだ。早急に危機管理能力をつけなければいけない状況であるにも関わらずこの体たらくぶりとは…自分自身に嫌気がさす瞬間だ。本能的に「これは危ない!」と判断できるようになるためにはもっと自己理解が必要だ。自分の体調不良のサインはどこなのか、どこまでがセーフのラインなのか…あまり考えてこなかった分野でもあるため正常な判断ができるようになるためにも今一度頭の中を整理せねば。

 

 

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スカートは誰のもの?

ここのブログのIDとパスワードを忘れ、登録したメアドを忘れ、それにプラスして回線の調子がよろしくない。このコンボで更新が遅れてしまった。

 

さて、そのことはどうでもいいとして今回は私自身のジェンダーについて話そうかと思う。

私、メラん子・リーは体は女性で性自認は両性という人間だ。周りは私のこのややこしいジェンダーに関してとても寛容なのでストレスなく過ごしているが、最近自分自身の中で疑問に思ったことがある。それはスカートという衣類についてだ。

スカート、といえばひらひらして可愛らしいもので”普通は”女性が履くものというのが一般的だろう。そしてそれを好むのも女性、という認識の人が多いと思う。けれど私は完璧に女性でないにもかかわらずよくスカートを履いている。両性とはいえ私はあまり自分がどの性別の服を着るかとかそういったことにはこだわらず着たいと思ったものを着ているので当然スカートも気に入っているので履いているのだ。しかしこのスカートというものは”普通は”女性の履くものなのでスカートを身につけていることで女性と扱われることはしばしばある。(見た目がまんま女性のものというのもあるけれど)

そういう扱いをされるたび、スカートとは一体誰のものなんだろうという疑問が頭に浮かんでくる。イギリスのキルト衣装は男性が主に身につけるもので、現代ではキルト・スカートといってキルトとは別物だが女性のファッションとして取り入れられているという。キルト衣装から見るに、私はスカートとはもっとジェンダーフリーな衣服なのではないかと最近考えていた。けれど日本ではスカート=女性という認識がいつまで経っても崩れない。一時期スカート男子というものが流行したが、やはり”男子”という単語がスカートは女性以外が普段身につけなものだという認識を後押ししているようにも思える。

私が思うに、人々は服装というものに囚われすぎているような気がしてならないのだ。スカートのこともそうだが、私がメンズファッションで歩いていると理解のない人が「なんで女の子なのに男の子の服を着ているの?」と言ってきたこともある。私自身男性と女性両方の性別を抱えているわけだがどうしても着ている服で判断されてしまう事が多い。パーティーでのドレスコードだって、なぜ女性だけヒールなのか、男性だけタキシードなのか。女性はこう、男性はこうと分ける必要は本来あるのか?

私がスカートを履くのは単にスカートが好きだからであって女性だからではない。メンズファッションで外に行くのは自分がそのファッションが好きだからであって男装をしているわけではない。ファッションで性別を区別する必要はないはずだ。

私はただ好きなものを着ているだけ。女性のものだとか男性のものだとかは関係なくただそれが好きだからだ。女性だからスカートを履くとか、男性だからタキシードを着るとか、そういう考えはもう古いものだ。ドレスコードもファッションのあり方も、ここいらでテコ入れがを入れるべき。男か女かという二択に囚われる時代はもう終わったはずだ。

見た目だけで性別を決めつける、そんなことがこれから先減っていけばと思う。そしてもっと自由に、自分の好きなものを好きと言える世界になっていけば更にいい。スカートはみんなのものだ。タキシードもハイヒールも、全部みんなのもの。そう大きな声で自信を持って言えるような環境を少しずつ作っていかなければならない。

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私はただ人間になりたかった

障害やセクシャルマイノリティをカムアウトすると私がこの人生の上で何が辛かったも知らないくせに「今まで辛かったよね、大変だったよね」と憐れんでくる人に今まで何回か出会ったことがある。今までの苦労を認めてあげよう、という気持ちには感謝するがそういう傾向のある人達は大抵私のことをただの人間としてでなく”障害者の”とか”セクシャルマイノリティ”のという尾ひれをつけて見ているな、と感じてしまう。

世の中にはたくさんの障害や精神疾患がある。統合失調症だとかアスペルガー症候群だとか、もう挙げるときりがない。肢体不自由やダウン症など見た目でわかるものからそれこそADHDやうつのようにぱっと見ただけではわからないもの、あまりにも様々すぎる。セクシャルマイノリティだってそう、トランスジェンダーだったりバイセクシュアルだったりアセクシャルだったりその幅は多岐にわたる。確かにこういったことで生活が不自由だったり悩みの種であったりというのはある、けれどそれ以前にまず障害者もセクシャルマイノリティもみんなみんな一人の人間である。一人の人間としての考えがあるし、思いもある。冒頭に書いたような人たちはきっと多分そのことを忘れているんじゃないか、というのが私の考えだ。

ここからは自分語りになってしまうがご了承を。私は小さい頃から自分が人間でないような気持ちでいた。育った環境や学校でのいろいろがあったのもあるけれど、なんだかクラスメイトとは別の生き物のような、なんともいえない感覚。友達付き合いが上手くいかなかったり、提出物を忘れたり、勉強ができなかったりするたびに私は心の奥でこう叫んでいた。

「人間になりたい!」

某妖怪人間みたいなセリフだけれど本当にこう思っていた。今思うと人間になりたいというより人間として扱ってほしかったのかもしれないけれど、どうなんだろう。自分でもまだそこはわからない。

閑話休題。人間になりたいとずっと思っていた幼い頃の願いはADHDの診断を受けることで一度砕かれてしまった。医者からの話はろくすっぽ理解できなかったけれど、どうやら私はみんなとは違うらしい。みんなとは違うことがこの頃はすごく怖かった。私は人と違うからみんなからいじめられるんだ、と曲解して私は学校に行かなくなった。そしてその頃学校だかなんだかのカウンセラーの人の元へ通うようになり、そこで初めて人間として扱ってもらえた。私の話を聞いてカウンセラーの人は一緒に笑ったり悲しんだりしてくれた、それが嬉しくて私はその時「自分もやっと人間になれたんだ!」と大きな勘違いをしてしまった。それから進学して友達ができ、私はそこでも人間としていられた。冗談を言って笑ったり軽口を叩いたり、人間として楽しい時間を過ごしていた。そうしていくうちに私は友達のことを信頼し、自分がADHDであることをカミングアウトした。障害のことを話すのはすごく勇気が必要だったが、この人達なら受け入れてくれると思っていた。返ってきたのは「それってすっごい大変だったんだよね、辛かったよね」の言葉だった。それから友達は私に必要以上の気を遣うようになった。授業が終わるごとに次は何の授業でどこの教室だよだとか、少し辛いことがあるとオーバーな程に同情してきたりとか、そういう気遣いが生まれる代わりに楽しく笑って冗談を言い合った時間は消えてしまった。今まで人間扱いしてもらえていたのが急に宇宙人にでも接待するような態度。つまりその友達の中で私は”ただの友人A”ではなく、”障害を持った友達A"になってしまったわけだった。そう気づいた時私は人間にはなれないのだと悟った。

この友達は私のことを思いやってくれて、その上での行動だったのかもしれない。けれどそれが私をひどく傷つけた。私はそんな気遣いではなくいつもどおりの楽しい会話をなにより望んでいたからだ。けれど障害をカムアウトしてしまった以上同じ人間同士のものであったその関係は歪んでしまいもとに戻ることはなかった。

私は思う。過剰な気遣いや配慮によって当事者を苦しめてしまうようなこともこの世の中にはあると。障害者もLGBTもそれに属する前にひとりの人間であり、こうしてほしいという意思や希望がある。同情したり気を遣うことは簡単かもしれないが、中にはそういうことを望まずただ”対等な立ち位置”を欲している人もいるかもしれない。過剰な配慮や必要以上の持て囃しは私の人間になりたいという願いを殺した。もちろん気遣いを嬉しく感じる人もいるだろうし、ものの捉え方は人それぞれだ。ただ、安直に同情の言葉を投げかける前に当事者本人を、障害者でもセクシャルマイノリティでもない”人間”としてのその人を見てほしい。その人と過ごした時間や、交わした言葉を思い出してほしい。理解するというのは過去の積み重ねもあってこそだと。

気遣いや思いやりは美しいものだ。ただし、望んでいる人に手を差し伸べる場合に限っての話だけれど。

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ラブソング=愛とは限らない

はじめまして、だなんてありきたりな挨拶で始まるこのブログの行く末が不安である。なにせ普通だとかありきたりだとかそういう言葉が嫌いなもので。

かといって適切な言葉がないためはじめましてで始めるとしよう。

拙宅、「ガイジにラブソングを」に足をお運びいただきありがとうございます。管理人のメラん子・リーです。メランコリーという単語を若干ブルース・リーを意識してもじったHNです。つまらん人間ですみません。

最初の記事ですしこのブログのタイトルの解説をしていこうかと思います。

タイトルの通りなんですけど、ラブソングってイコール愛とは限らないというのが私の持論です。私の中で愛という言葉はたった一文字二音で様々な意味を持つ言葉でして、そこには甘い恋愛の意味もあるだろうし耳に痛いお小言や周りからのまっとうな意見だったり歪んだ人々からの心無い言葉も本人たちが愛と言い切ってしまえば「愛」になってしまう少々乱暴な言語という解釈をしています。世の中DVだったり虐待だったりパワハラだったり過保護だったりたくさんの「だったり」があるわけですが、もしかしたらそうして起こる悲劇や喜劇もすべて愛でしかなくラブソングとはひとえに甘い恋愛だけのものではないということが言いたいわけです。

このブログのタイトルのガイジとは私メラん子・リーのことで、ラブソングとはこのブログを書くことによって生まれる意見すべてを乱暴にひっくるめ愛として受け止めようという意思表示です。

ここには私メラん子・リー一個人の意見のみ載せていく予定ですので、そう遠くない未来に「この記事に書いてあることはクソだ!」「筆者は死ね!」といった意見も出てくるかと思います。そんな意見も私からしたら愛でしかないぞ、と。私にとって私の記事を読み生まれた感想はすべて愛として扱うからな、ということです。そもそも愛の反対にあるものは無関心だと偉大なるマザー・テレサも遺しています。このブログを通してこれを読むあなたの心に何かを残せたら、それは無関心ではなく愛なのです。

……長々とそれっぽいことを書きましたが皆様おわかりの通り名作「天使にラブソングを」のパロディでしかありません。騙されてそれっぽい部分を読んでしまったあなたに一言、ざまぁ。

このブログはこのとおり深いことも書きますがそれに大した意味はない、ということを先に皆様に知っていただきたくこのような構成にしたことを謝罪します。すんまそん。

私の書く文章が固いせいで社会派ブログだと勘違いされた方は申し訳ないのですが基本的に中身はすっからかんです。だってブログの名前が映画のパロディだし。

寝る前とか何か惨めなものを見て指をさして笑いたいときはこのブログのことを思い出していただけると幸いです。

毎日の更新はADHD人間にはできるわけがないので更新頻度もまばらになる予定ですが細く長くやっていきたいところでございます。それでは次回の更新でお会いしましょう、サラダバー

 

 

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